「遅れてんだよ!」
その声が車内に響いた瞬間、前の方に座っていた人たちが一斉に顔を上げた。
平日の夕方。
駅前から少し離れた道路は、いつも通り詰まっていた。
信号も多いし、横断歩道もある。
バスが時間通りに進まないことくらい、乗っている人ならだいたい分かる状況だった。
それなのに、前方に立っていた男性だけは違った。
「毎回毎回、なんでこんなに遅いんだよ」
「こっちは予定があるんだよ」
「ちゃんと走れよ」
運転手さんは、最初は静かに対応していた。
「申し訳ございません。道路状況により遅れが出ております」
その言い方も、乱暴ではなかった。
むしろかなり丁寧だったと思う。
でも男性は止まらなかった。
「道路状況って言えば済むと思ってんのか」
「こっちは金払って乗ってるんだぞ」
その言葉を聞いたとき、私は正直、少し腹が立った。
お金を払っているからといって、何を言ってもいいわけじゃない。
しかもバスは、タクシーじゃない。
信号もある。
乗り降りする人もいる。
車椅子の人がいれば、時間をかけて安全確認もする。
それを全部ひっくるめて、運転手さんがひとりで背負っている。
車内には、子ども連れの女性もいた。
杖を持った高齢の方もいた。
誰も急かしていない。
誰も怒鳴っていない。
なのにその男性だけが、まるで自分の遅れを全部運転手さんのせいにするように、ずっと文句を言い続けていた。
運転手さんは何度も謝った。
「申し訳ございません」
「安全運行を優先しております」
「到着まで少々お待ちください」
それでも男性は、前のバーにつかまりながら、さらに声を荒げた。
「安全安全って、遅れたら意味ないだろ」
その瞬間だった。
運転手さんの声が、少しだけ強くなった。
「本日は〇〇通りが大変混雑しております。無理に走行することはできません」
車内が静かになった。
男性はまだ何か言い返そうとしていたけれど、運転手さんは続けた。
「お急ぎなのは分かります。ただ、乗っているお客様全員の安全が最優先です」
その言葉を聞いて、私は胸の中で拍手した。
本当にその通りだった。
遅れて困る気持ちは分かる。
でも、だからといって安全を削れという話にはならない。
バスには、その男性だけが乗っているわけじゃない。
次の停留所で、男性は不満そうに降りていった。
降りる直前まで、何かぶつぶつ言っていた。
でも、運転手さんは最後まで「ありがとうございました」と言った。
その声を聞いて、私はスマホを取り出した。
SNSを開いたわけじゃない。
バス会社のホームページを開いた。
お問い合わせフォームを探して、便名と時間を書いた。
そして、こう送った。
「本日〇時ごろの〇〇行きのバスで、運転手さんが乗客からかなり強い言い方をされていました。道路混雑による遅れで、運転手さんに責任があるようには見えませんでした。他の乗客も不安になる状況でしたが、運転手さんは最後まで安全を優先して対応されていました」
そこまで書いて、少し迷った。
ただの感想で終わらせるか。
それとも、ちゃんとお願いとして書くか。
私は続けて入力した。
「こういう理不尽な言い方をされる現場を、会社として守ってあげてほしいです。クレームだけが届くと、現場の方が一方的に悪く見えてしまうと思います。見ていた乗客として、運転手さんの対応は間違っていなかったとお伝えしたくて送ります」
送信ボタンを押したあと、少しだけ手が震えた。
大げさかもしれない。
でも、何もしない方が嫌だった。
たぶん、あの男性はあとで電話するかもしれない。
「運転手に言い返された」
「態度が悪かった」
「客に向かって何だ」
そんなふうに言うかもしれない。
でも、その場にいた人間として、私は知っている。
先に怒鳴ったのは誰か。
ずっと我慢していたのは誰か。
車内の安全を守ろうとしていたのは誰か。
その日の夜、バス会社から返信が来た。
定型文かと思ったら、少し違った。
「現場乗務員への温かいお言葉をいただき、誠にありがとうございます。いただいた内容は担当部署へ共有いたします」
それだけの短い返信だった。
でも、私はそれで十分だった。
少なくとも、あの運転手さんのところにクレームだけが届く状態ではなくなった。
悪い声だけが大きい世の中で、見ていた人がちゃんと伝えることにも意味があると思った。
怒鳴る人は目立つ。
文句を言う人は強く見える。
でも、本当に現場を支えているのは、黙って安全に仕事をしている人たちだ。
そして、それを見ている側も、ただ黙っていなくていい。
その場で言い返せなくてもいい。
あとから一通、まともな声を届けるだけでもいい。
あの日の運転手さんへ。
あなたの対応、ちゃんと見ていた乗客がいます。
あの場で大きな声を出した人より、あなたの「安全が最優先です」の一言の方が、ずっと正しかったです。
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